——床のべたつく居酒屋の一角。奥の座敷からは賑やかな声の響く一方、こちらのテーブルとカウンターはそれほどでもない。切り盛りするのは店主ひとりで、洗い物の最中である。
背後のテーブル席に座しているらしいふたりの会話が気になってしかたがなかった。いや、会話なんてものじゃない。片方がまくし立てていただけだった。それを一方的に聞かされるのはふたりぐみの片方だけでなく、私もだった。てきぱきしているおかみさんだって、私と同じように聞き耳を立てていたのかもしれない。
「だーかーらーさー、ね、そういうことだから。もう噛みあわなくなっちゃってたわけ。やっとわかった……遅すぎるよね。だからまとめると……ええと、そう、コトハしっかりしてんじゃん。で、なのに、わたし、ぜんぜんだめじゃん。てことはさ、てことはね、わたしたち、つきあってちゃだめなわけよ」
震えた声は泣きだしそうだったせいか、あるいはすでに泣いていたのかもしれない。振り返れば表情だって見てとることができたのかもしれなかった。
「コトハにもよくない。だってせっかくしっかりしてんのにわたしが足ひっぱっちゃってイライラさせる。わたしにもよくない。劣等感かんじちゃうから。だからそういうよくある話なわけ……旅行前に気がついといて……つたえられて、ほんとよかった」
よくある話だ。馬鹿馬鹿しい話だと私も感じた。みずから身を引くなんて言い条、未練たらたらではなかろうか。どう考えったってそうに違いなかった。
——洗い物が一段落し、壁にかかったテレビを眺める店主。お笑い芸人が電車に乗ってはしゃいでいる。
「でもこんなのさ、あんとき気がついとくべきだったんだよね。コトハの家にわたしずっといたころ。めっちゃ喧嘩したことあったじゃん。忘れた? 忘れてないよね。コトハがさ、家事くらいやっといて、あんたなんにもやってないでしょっていって。いや、わたししてるけどっていって、わたしが」
誰かと暮らすことに困難がつきまとうのは、そうなのだろうと思った。私じしんにも経験がなく想像できなかったけれど、それでもすこしくらい、たとえば、ルームシェアくらい経験しておくべきだったのかもしれない。
「なんか、また蒸し返すみたいになるけどさ、やっぱあんときだったとおもうんだよね……つか、だってさ、こっちだって留年してたわけ。留年してるってことはね、もう一年、大学でやんなきゃいけないことがありますよって、そういうことなわけでしょ」
——テレビではコマーシャルが流れている(冷凍餃子、生命保険、ハウスメーカー)。
とはいえ私にだって家族と暮らしていたことはあるはずで、それが友人や恋人とともに生活するのとどれほど違った日々なのか、正直なところよくわからなかった。どこからどう見たって別だろうなんてのは、それはそうなのだが。想像すればよかったのだろうか。でも、したくなかった。相手も思い浮かばなかった。それに、ひとまずレバ刺しがうまかった。そういうことでよかったのではなかろうか。
「それにバイトだってあったし。コトハが仕事するのとおんなじなわけ! あんときだってほんと、コトハわたしのことサボってるだけっておもってたでしょ。っていうか実際そういってたし」
——上手の座敷から「すいませーん」という声が二度。店主、一時退場。
早めにレバ刺しのおかわりを頼んでおくべきだった。残っているビールの分量に対するつまみの残量がいかにもアンバランスだった。塩みをもって流し込まねばならないと、義務感めいた感覚さえ覚えていた。
「そりゃコトハはさ、あのときだいたい毎日、終電で帰るみたいな、あれだったし……わたしだって大変だろうなっておもってたけど……あれはないじゃん。あんときだってなんだかんだでうやむやにしてたけど、っていうかそうだね、コトハが謝ってくれたから、まあいいやみたいになったけど……」
親と子の関係のうちでしか誰かと暮らしたことのなかったのが私だった。いや、考えなくてもよかったのだった。
「べつに、あれで、許したわけじゃなくて」
——用を聞いて戻ってくる店主。
「いや許したっていうか、ちがくて、あとでわたしのほうが悪かったって、あとでね、いまでもそう、おもったしおもってるんだけど。でもだから……だからいまならいえるけどさ、だからそれが理由なんだけど、あんとき謝られたのが嫌だったわけ。だからこそっていうか、なんていうかな」
——ピッチャーにビールを注ぐ店主(ビールサーバーとビールは実物を使用のこと)。
「わたし大人でーす! だから謝れまーす! って見せつけてきてんのかよってなったわけ。いやなんていうか、ちょっとちがうけど、なんていえばいいかな……っていうかそもそもそんなつもりじゃないのだってわかってるし、あのときだって、そんなことわかってたけど」
——店主、ピッチャーを持って退場。
「あれからたまに考えちゃうようになったんだよね。コトハはすっと卒業して就職しちゃってさ。だって大学のころなんてべつにわたしといっしょに遊んでただけじゃん、わたしとおんなじことしてただけじゃん。わたしがもう一年ってなったときだって、だって、ぎゃくに喜んでたじゃん。喜ぶだけのことじゃないのもわかってて、でもそんな、ちがわなかったじゃん、たぶん、気持ち、おなじようなもので」
親御さんのほうはどう思っていただろうね。などと、そもそもどんな境遇にいたのかもわからないのだから見当はずれというものかもしれなかった。大学というものだって私にはよくわからなかったし、大丈夫というのなら大丈夫なのだろうか。あるいは実際、嬉しいものなのかもしれなかった。背後にそういう、よくわからない人間がいるらしかった。
——店主、戻ってくる。
「なんならむかしコトハなんてめっちゃひどかったし。そうだよ。そんな許すとかしないし、しなくてもよかったじゃん。なんか、どうせ帰りにだらっとついてきて、わたしんちに。こっちだってだから、まあいいかって、だいたいそんな感じでよかったじゃん。つか、そう、許すのはわたしなの。わたしじゃなかったわけ?」
コンプレックスじみたなにかがわたし自身のうちにあったのかもしれない。自覚のないままに。
「だから、そう、そうなの!」
——ガチャンという音。スポットライト。カウンターの客、振り向こうとするが、すんでのところで思いとどまる。
いきなり机を叩くものだから驚いてしまった。けれど、さすがに後ろを向くわけにもいかなかった。暗くて判然とはしなかったけれど、観客のなかに声をあげたのさえ聞こえたのではなかったか。
「うあ、ごめん……ごめんなさい。ええと、だから……そもそもさ。そもそも、うちらが付き合いだしたのだって、コトハがどうしてもっていってたからじゃん。忘れてたとはいわせねえぞ……だから、そういう、なんていうか……惚れた弱みみたいなの、ないわけ?」
——テレビのチャンネルを切り替える店主。NHKのニュース。
それは理不尽というものじゃなかろうかと思った。それを自分で言うものなのかとも思った。はじめからそうだったのかもしれなかった。けれど、いつが「はじめ」だったか。天気予報で週末は雨との報。久しぶりに出かけようと思っていたというのに。
——カウンターの客、テレビの天気予報を眺める。
あるいはもう雨が降っていたりするのだろうかと考えた。傘を持ってきていなかったのではと焦った。いや、折り畳み傘があったかもしれない。
——カウンターの客、荷物を漁る。折り畳み傘が見つからない。客席に同様の者が数人。
ここから駅まで、それから駅から家までだけなら、きっとなんとかなるだろうと腹をくくることにした。むしろ帰り道をたどれるかどうかが気に掛かった。
「コトハが女連れ込んでたときだって……わたしが、わたしが許してあげたんじゃん。気にしてないって嘘だからね、あれからずっと許してないっていうか、いや、許してあげたんだけど、許してるけど、反省してるのわかってるから、だから許してなくはないけど許してるっていうか……」
雨に気をとられているうちに気になる話になっているようだった。ふと、あのふたり、雨は大丈夫なのだろうかと思ったけれど、私が気に掛けることではなかったはずだ。
「それでおもいだした、っていうか関係ないけど前からいおうとおもってたんだけど、コトハってブロッコリーゆでるとき茎捨てるタイプじゃん。あれさ、前からいおうとおもってたんだけど、前からいおうとおもってたんだけど、いっそいまいっちゃうけど……あれほんと信じらんないんだよね。わたしいっつもちゃんと使ってんの知ってるでしょ」
そういうことは早く伝えておくべきではなかったか。その程度のコミュニケーションができないから、そんなしょうもないことで別れるだの別れないだの言うはめになったんだろうと思った。私に経験がないとはいえ、そのくらいはわかるつもりだった。おかしいのは私のほうだろうか。ブロッコリーの茎を捨てるのだって、たしかに信じられなかった。信じられない。だいたい、女を連れ込んだという話はどうなったのか。あのお通しのポテトサラダにもブロッコリーの茎が入っていたのだったか。
「もったいないっていうか、もったいないのはそりゃそうなんだけど……そうじゃなくて……わたし捨てずに作ってるよねごはん。それ知っててそのままでいいっておもってるのが嫌っていうか。いまだにそうじゃん。いまだにそういうところあるじゃんコトハって」
とはいえそもそも、近くの席の客の話なんて聞くべきではなかったのだ。もちろんあちらは気にしてなぞいなかったに違いないけれど、私のほうでようやく気まずく思えてきて、SNSを眺めることにしたのだった。
——カウンターの客、人参が残されたポテトサラダの皿のわきのスマートフォンを持ちあげ、眺める。
「あれ嫌だったんだけど、そのうち嫌じゃなくなって、でも嫌じゃないからってコトハがぜんぜん変わらないままなのがむしろ嫌になって、だからやっぱ嫌なんだって。嫌になった。っていうか、嫌じゃなくなったわたしも嫌だったんだ。そう、いま、嫌だと、自覚しました!」
目下の話題はちいかわばかりだった。
「あー! いってやった、いってやりました!」
——店主、仕込んでいた料理をいくつか取り出す。
「っていうか、いや、うん、それはいいの、それはよくて。よくないけど関係なくて。あるかもしれないけど。なんだっけ、だから連れ込んだときの話か。いや、コトハのこと責めたいんじゃないの。そんないまさら……でもあんときおもったんだよね」
その話に戻るというのなら、気になってしまったってしかたがないのではなかろうか。聞かせていたのかもしれない、なんてのたまうのは自己正当化が過ぎるとしても、もういいだろうと開き直ってはいた。
——カウンターの客、スマートフォンに目を向けたまま。
「付き合ってすぐにああいうことするような人間で……そりゃわたしだってコトハがモテるの知ってるし、だからそういうことずっとだらしないし。でもあれから、いちおう、やってないじゃん。やってないんだよね。よし」
いいのか、と思った。それでよかったんだ、そういうものなのだろうか。付き合いたてで一緒に暮らすような状況ではなく、けれどもそういった出来事があったからには、互いの部屋の合鍵を持ち合っている関係だったのだろうか。もしかすると一方は実家ないし寮住まいだったのかもしれない。
——盛り付ける店主。スマートフォンを皿のわきに戻す客。カウンターで立ち働く店主を眺める客。
一方が女を連れ込んでよろしくやっているその最中に、もう一方が部屋にあがりこんできた、といった寸法だろうか。連れ込まれたほうの、もうひとりの女はどんな反応を返したのだろうか。心に傷でも負ったのだろうか。誰が?
「いいたいのは、わたしがいいたいのは、そういうだらしないのってコトハだったってこと。だったはずじゃん。わたしじゃなくてね。そういうキャラでやってきてたわけじゃんコトハって。そういうのが……そういうところがかわいいっておもって、おもって、わたしだって、付き合うよっていったんだし」
そのあたりでようやく、なんとなく話がつかめてきたような気がしていた。逆さになってしまうと付き合いづらくなってしまう。そんな、余計にしょうもない話だったのだろう。
「それがいつのまにこうなっちゃったんだろうって……思って……ね。それってわたしが留年したせい? じゃないとおもう。ちがうよね、コトハが変わっちゃっただけだよね。わたしじゃなくて、コトハのほうが……なんか、勝手に。急に自分がちゃんとしなきゃみたいになって、わたしがどうおもってるのかも知らずに、勝手になっちゃって、急にさ」
——店主、盆を持ち退場。
私はレバ刺しを注文し忘れていることに気がついた。
「だれがちゃんとしてほしいなんていったの? そんなの、ならなくてもよかったのに。わたしは、コトハが、頼ってくれるのがうれしかったのに。だんだんそんなこともいってくれなくなって。もしかして、ほんとに……わたしが留年したからっていうつもり?」
それにしてもやけに留年にこだわる。私自身に経験はなくとも、高校のころの知人に二人はいたはずだった。うち一方については、成人式のときに一度会っているはずで、そのときにはもう、まるでなにもなかったかのようだった。きっとそうだった。ただ、どちらの名前も浮かばなかった。
「そんな、人のせいにしないで。あーもう!」
いや、一方は中退しただけだっただろうか。だとすると、それはどちらだったろうか。
——客席から店内にのぼってくる観客が一人。召使である。漠然と舞台奥をまなざし、「奥方さま?」と声をかける。店主が戻ってくる様子はない。
なにか声をかけるべきかと思った。けれど、さすがにそれは差し出がましいのではないか。後ろの席のふたりも、耳に入ってくるかぎりでは、気付く様子もなかった。
「……こっちだってもう立派な労働者ですっての。立派かどうかわかんないけどまあやってますっていう。べつに一年ちがおうが誤差なわけじゃん」
——召使、まだ立ち尽くしている。
その通りだと思った私は、やはり声をかけねばならなかったのではないか。差し出がましいなどととりたてて躊躇するようなことでもなかったはずで、実際にそう思っていたはずだ。
「わたしはそんな……だいたい……だいたいさ、こんど沖縄行くののチケットだって、そうじゃん」
別れ話をしているのだとばかり思っていたけれど、それなのにこれから旅行の予定があるということか? いや、だからこそその前に清算しておきたいという話だったのか。と、そういうことにした。
——召使、まだ立ち尽くしている。
「わたしが予約したの。予約したのわたしなわけ。ホテルもそう。すごいなわたし! ね、すごいでしょ? だからさ、なんか、感謝とか……いや、してくれなくてよくて、そりゃそれくらいするし……だからなんだって話なんだけど、なんか、わたしだってやってるわけ、やってるよね。やー、楽しみだな。わたしのおかげで……」
——召使、無言で客席へと戻る。
だからきっと、声をかけておくべきだったのだろう。心のなかで罪悪感を抱えるだけ抱えておくことにした。
「そうだね、そうだわ、あんときいちおう、頼って? ……くれたよね。頼ったっていうか……べつに頼った頼られたとかそういうんじゃなくて。それはわかってる。なんか、手続きしたくらいでそんな」
私が罪悪感を抱えようとしている隙に態度を軟化させているようだった。そのような手続きがどうしたって苦手だという自覚が私にはあって、聞いたとたんには偉いもんだと素直に思ってしまったのだけれど。考えてみればたいした話でもない。客に声をかけるかどうかに通じていたりもするものだろうか。
「だからそうだね、ちがうね。ちがうよ。そもそも、まずいつどこ行くのとか決めてくれたのコトハだし……っていうか、いうけど、旅行だって、わたし、コトハとだからこんな楽しみなわけじゃん。それはわかってるし、コトハもきっとわかるよね。頼った頼られたじゃなくて、そうやって予定たてるのが楽しくて」
——店主、戻ってくる。チャンネルを切り替えるが、めぼしい番組が放映されていないらしく、ニュースに戻る。
風向きが変わっていやしないだろうか。その通り興醒めだったのか、観客が幾人席を立つ気配もした。私の目でその姿を認めることは依然としてかなわなかったのだけど。
「いってみたけどあたりまえすぎてちょっとウケるな。ウケない? そう、だから、だれが予約したのかとか、予定たてたのがだれとか、そういうんじゃなくて。わたしはこれ、ウケるとおもんだけど」
なにも解決していないはずで、それなのに勝手にウケている。おかしくはないか。それともおかしいのは私だろうか。私だったのだろうか? それなのに、それでも、席を立つわけにはいかないらしかった。
——カウンターの客の空き皿を片付ける店主。
「べつに沖縄じゃなくてもよかったし、ホテルだってとらなくったってどうにかは……ならないか、それはならないかもしれないけどさ。どっちにしろ楽しいよ。楽しい。だから……うはは、われわれの勝利だ。やっぱウケるって」
高校を卒業するときに友人たちとディズニーランドだかディズニーシーだかへ行ったのだった。行った、と私は思った。
「っていうか、卒業旅行みたいなのも、行けなかったしね。どっちの卒業旅行すればいいんだってならなかった? わたしはなってた。だからいわなかった。コトハが卒業するときにだけど。わたしのときはもうべつに、そういうの、考えもしなかったけど」
きっと行ったはずだ、と私は思っている。
「だからこんどの旅行、卒業旅行ってことでいいんじゃない」
その関係性を、言ってしまえば、卒業するんじゃなかったのだろうか。
「どっちが、っていうの、それでやめればいいんだよたぶん。そういうのから卒業するっていう。ね、それでいいや。それでいいです。わたしが許します! ……じゃなくて、許すとかそういうのじゃなくて。そうさせてほしい。ってことで」
——奥の座敷の声がいよいよ賑やかになってくる。
「よし、きれいにまとまったし、帰ろっか」
——暗転、それから数秒ののち、椅子を引く音がする。
客席へと降りていくふたりぐみの気配があった。支払いはどうなったんだろうか。暗中のおかみさんがなにか言う様子もなさそうだった。客席のむこうの扉が開き、漏れた明かりに幾人かの顔がおぼろげに照らされていた。いったい外にはなにがあったんだろうか。どうやら沖縄はあるらしかった。光のあわいへと消えるふたりを認めた。雨は降っていたのだろうか。奥の座敷の声がいよいよ賑やかになってきた。閉ざされた私は、これを上演しろというのかと思った。